猪飼野(いかいの)・猪飼津(いかいつ)
御幸森天神宮のある地域の、現在の住所は「桃谷」ですが
昔は「猪飼野(いかいの)」と言いました。
昔、と言っても昭和48年までそうだったのですから、
比較的、最近の話かもしれません。
鎮座地名の変遷
上古 | 摂津国東生郡猪甘津 |
---|---|
中近世 | 摂津国東生郡猪飼野村 |
明治四年十一月 | 大阪府東成郡猪飼野村 |
明治二十二年四月 | 大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野六二六番地 |
大正十四年四月 | 大阪市東成区猪飼野町六二六番地 |
昭和七年四月 | 大阪市東成区猪飼野西三丁目四九番地 |
昭和十八年四月 | 大阪市生野区猪飼野西三丁目四九番地 |
昭和四十八年四月 | 大阪市生野区桃谷三丁目十番五号 |
「猪飼野」という地名はなくなってしまいましたが、
「猪飼野橋」という橋の名前で残っていたり、
地車(だんじり)は「猪飼野保存会」という名前で活動をされています。
この地名は昔々からあるもので、
古地図にもしっかりと書かれています。
当宮の由緒にもある通り、今から千六百年前、この近辺は「猪飼津(いかいつ)」と呼ばれ、
難波の入江の港であり猪甘部(いかいべ・猪を飼育していた古代の官職。鷹甘部などと同じ)が住まいしていた所でした。
飛鳥時代以降、殺生を禁ずる仏教の教えが普及するに伴って、猪飼部も消滅し、地名だけが残ったようです。
「摂津名所図会大成」巻六・猪甘津の項に
「猪甘津の橋間をくだす五手船いつか浮世を御津の浦かぜ」という歌があり、
当時は、たくさんの船が行き来する賑わいのある港だったようです。
以下は、明治十八年頃と昭和二年頃の地図です。
こうして見比べてみるのもおもしろいものですね。
(参考:御幸森天神宮千六百年記念誌)
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